はじめまして^^ みおと申します!
このブログをご覧いただきありがとうございます♪
私は現在今年30歳で第一子育休中のママです。
これまでは普通の会社員をしていましたが、休職がきっかけで
仕事と子育て、そしてプライベートの両立のためにWebマーケティングを学び
フリーランスになることを決めました。
目標は育休明けまでに月収20万円、育休明け1年後に月収50万円を達成することです!
基本情報
みお
・1993年10月生まれ てんびん座 (現在30歳)
・0歳甘ったれやんちゃボーイのママ
<性格>
・おっちょこちょい
・友達には「抜けてる」夫には「ドジ」と言われる
・目的があれば猪突猛進、目的を失うと死んだ魚のような目になる
・毎日ごきげんで過ごすがモットー
<経歴>
・慶應義塾大学 大学院 薬学研究科 修了
・医療系広告代理店 勤務
みおってどんな人なの?
突拍子もないことをやりだすおてんば人生をまとめました。
長くなりますが、読んでいただけたら嬉しいです。
<幼少期~中学生時代>
ごくごく普通な幼少期
東京なのにイノシシが出る東京都八王子市出身。
頑固で変わり者の父と世話好きの母、瓜二つの姉と妹。
そして、祖父母の3世帯家族で育ちました。
父は脱サラ後起業し、1人で会社経営。
母は専業主婦だったので
幼少期は普通の生活はできるものの家計はいつもギリギリでした。
なので、5歳位の時にはピアノを習いたいとお願いするも
当時は余裕がなかったので通えず
子供ながらに「お金がないとやりたいことってできないんだな~」と刻み込まれました。
小学生時代は放課後は毎日友達と遊んでいる普通の女の子でした。
その頃には家計にちょっと余裕ができたようで公文式に通わせてもらいました。
親に言われるわけでもなく朝学校に行く前に決まった時間に公文の宿題をやっていたので
勉強は嫌いではなかったようです。
この頃までは勉強に苦手意識を抱くこともなく好成績でした。
まぁよくいる普通の小学生かな、と思います。
自分を知り始めた中学時代
所さんの「日本全国吹奏楽の旅」を見て吹奏楽に惚れ込み、
近くにあった強豪吹奏楽部がある公立中学校に通うことにしました。
パートは打楽器。
勉強そっちのけで朝から晩まで部活漬けの日々を送り、
部活を通して自分の良い部分と悪い部分に気づきました。
良い部分は集中力があること
ゾーンに入ったら脇目もふらずに動き続けることができます。
その一方、
自分は人と同じ結果を出すのに3倍時間がかかるところ
練習に練習を重ねても人並み位の出来にしかならないのです。
と同時に、残念ながら勉強の方も要領が悪いタイプということに気づき始めました。
おそらく記憶力がめちゃくちゃ悪いです。
テストはこの特徴が顕著に出て、
試験前になって猛烈に勉強してどうにか中の上位の成績で収まっていました。
まぁそんな自分の特性に気づいても、特に行きたい高校もなく
中3の秋までずっと部活をしていたこともあり
塾の先生にインフルエンザで38℃の熱が出ても受かると言われた公立高校に進学したのでした。
<高校時代>
相変わらずギリギリまで勉強しない高校時代
高校ではサッカー部のマネージャーをしたり、バイトをしたり
のびのびとした女子高生ライフを送っていました。
一応塾は通っていたけど、相変わらず勉強は試験前だけ。
勉強の要領が悪いのも変わらず。
必要性を感じないと全く勉強をしない子でした。
せっかく通わせてもらっていた塾でも
英語の授業で「アイランドの意味は?」と基本的な事を聞かれて
寝ぼけまなこで「夢の国」と答える始末。
高校時代の一番の思い出は
試験期間が終わって公園で友達とお菓子パーティーをするつもりが
持って行ったポテトチップスをカラスに取られて猛ダッシュで取り返したこと
真面目な子はコツコツ勉強をしているのを横目に、マイペースを貫いていました。
訪れた人生の転機
そんな私にも高校3年生の春、転機が訪れました。
なんとなくついていたテレビの情報番組で、「ドラッグラグ」についてのドキュメンタリードラマがやっていました。
ドラッグラグとは
「海外で使われているくすりが、日本で承認されて使えるようになるまでの時間の差のこと」です。https://www.jpma.or.jp/about_medicine/guide/med_qa/q39.html
テレビの中で癌で苦しむ患者さんが、
「薬はあるのに今の日本じゃ自分の癌には使えなくて指をくわえてみているだけ」
と言っている様子を見て、
「なんで、薬はあるのに使えないの!」
「1日でも早く患者さんに薬を届けたい!」
とズドーン!と頭に雷が落ちました。
*正しくは当時も使える手段はありましたが、純粋な女子高生はテレビの情報を鵜呑みにしました(汗)
当時化学だけは得意だったので、薬学部なら得意を活かして人の役に立てると思いました。
それから猛勉強をして、私立の中堅薬科大になんとか合格。
私立薬学部は学費が高いので、全額奨学金で進学することになりました。
<大学時代>
目標が決まったら猪突猛進
高校時代の熱い想いを叶えるべく
厚生労働省の夏のインターンシップに応募してみました。
倍率15倍の末、勝ち取った先に見えたことは
「制度を変えるってうん十年がかりなんだな」
「希望の部署で正規職員として女性で活躍してる人0」
「2-3年おきの部署変えで希望のポジションに就ける保証なし」
職員さんたちはめちゃくちゃかっこよかったのですが
残念ながら省庁で働くイメージは一気に薄くなりました。
一方、配属された席に置いてあった冊子に手を伸ばすと
裏表紙に政策立案に関わっている大学の研究室一覧が書いてありました。
「制度について研究するのって楽しそう!」
と思い、自分の大学で同じような研究室がないか調べましたが
残念ながら、大学のシステム的に自分の学科からは所属できなそうなので
冊子に書いてあった慶應の大学院を受験することにしました。
第二回人生の猛勉強期
そもそも
薬科大も補欠合格からの繰り上げでギリギリ浪人せず入学。
なんなら2年生に上がる前には留年ギリギリでした。
ギリギリでいーつも生きていきたいからぁ~♪
とKAT-TUNの歌が聞こえてきそうな半生です。
そんな親の頭の中に私が勉強ができるイメージは全くありません。
そのため
親に「私、慶應に行きたい!」と言った時は
「この子何言ってるの?」という顔をされました。(当たり前)
そして
就職したり、自分の大学の大学院にそのまま進学するのが一般的な中
格上の大学院を受験をするというのは少数派です。
当時の研究室でもなかなか受け入れられず
ある日研究室に行ったら私の席がありませんでした。
他にも悪口を言われたり
仲間外れにされたり…
それもそのはず。
研究室で一緒になったメンバーは穏やかなタイプが集まる薬学部では珍しい
唯一性格が悪いで有名な女の子でした。
マンガかアニメの悪役かな?
と笑っちゃうくらいキャラの立った子だったので、
開き直って、これ幸いと研究は最短で終わらせて図書館に籠って勉強することにしました。
それからは学校の授業と研究と並行しながら1日4時間睡眠で持てる時間を全て投入し、
どうにか慶應の大学院に合格。
この大学院受験を通して
ー挑戦すると妨害者が現れるもの。
ー自分の決断に自信があるのなら、妨害者は無視してOK。
という事を学んだのでした。
<大学院時代>
人生の黄金時代
合格した喜びは束の間。
秀才達と肩を並べてやっていけるのか。
外の大学からやってきた”外様”が上手くなじめるのか。
色んな不安がやってきました。
しかし、
その心配はまったく不要でした。
優秀な人というのはマインドも良い人が圧倒的に高い。
とても温かく迎えもらいました。
そして、
”外様”だからこそ気づいた慶應生の特徴はこちら
・”当たり前”の基準値が高い
・その当たり前をものすごい精度かつスピード感で継続できる
・「できない」ではなく「どうすればできるか」という考え方をする
これまで出会ってきた同世代と圧倒的にレベル違いな秀才に出会ったことで
吸収できるものは全て自分のものにする気持ちで目を光らせて過ごしました。
慶應生はみんなクールな努力家
生粋の慶應生には到底及ばないレベル感で研究室に入った私でしたが、
やはり、環境の力というのはすごいのです。
アメリカの学会で優秀ポスター賞をいただきました。
ついでに口頭発表をすれば飛行機代・ホテル代全額支給
という破格のオファーをもらったので口頭発表もしてきました。
当時研究室内で海外の学会で英語で口頭発表をした学生はおらず、
なんと外の大学から来た私が一人目という快挙を果たしました。
長くは続かない黄金時代
成果も出せたところでようやく
要領が悪いというコンプレックスは
圧倒的な行動量である程度でカバーできる
と思えるようになってきました。
就職活動ではこのたたき上げスキルを活かし、
製薬企業の高倍率のインターンシップに次々合格。
就活の面接のインターンシップ枠もゲット。
一流製薬企業に入る準備は万端なはず。
希望の進路は製薬企業の薬事部門。
新卒採用枠がなかなかない職種で当時募集を出している企業は2社しかありませんでしたが
ここまで頑張った私なら入れるんじゃない?と夢を見ていました。
まぁ、現実はそう甘くありません。
結果は…
第一志望の製薬企業の最終面接でお祈り
高校時代からの夢は破れました。
これだけ頑張ったのに7年間の努力は水の泡。
連絡が来たのは研究室にいた午後8時。
思わず大学のトイレに逃げ込み、涙が止まりませんでした。
よく考えれば、元々不器用な私が数年頑張ったくらいで
生まれた時から英才教育を受けている秀才達に
そう簡単に勝てるはずがありませんでした。
ー学生時代に人生の教訓として得たものー
「壮絶な努力も裏切られる」
目的を失った私は死んだ魚のような目になりました。
<社会人時代>
希望ではない会社でしたが、どうにか医薬品開発を受託する外資系企業に拾ってもらいました。
会社は綺麗だし、社員さんも良い人達ばかり。
でも、
残念ながら業務内容への適性が決定的にありませんでした。
医薬品の開発というのは決められた手順書に沿って、必要なデータを1つのミスなく集めてくる作業です。
仕事の完成度は99%でも101%でもダメ。
完璧に100.0%を狙う仕事です。
当然クリエイティビティは0。
むしろ、クリエイティビティを発揮したら人の命を落としかねません(汗)
「やりたい仕事ではないけど医薬品業界にはいるし、患者さんに薬を届ける仕事をしている」
そう言い聞かせて仕事をしましたが、パズルのピースを正確にはめるような仕事は向いていませんでした。
・当然ながらミスばかり
・一人前になる試験にも受からない
・大病院に上司を連れて謝りに行ったことも…
完全な落ちこぼれ社員で、社会人としてやっていける自信がなくなってきました。
不調は重なるもの
自分の心に蓋をして働いていた頃、
学生時代から5年以上お付き合いしていた彼に振られました。
「学生時代と違って目標に向かって走っていない君は魅力的じゃない」
そんなこと…
私が一番悩んでるの!!!!!
学生時代は勉強に部活に頑張る彼を支えてきたはずなのに、
私の調子が悪くなったら振られました。
超ムカつくと共にさらに意気消沈。
しかもこの彼、研修医。
このまま結婚できたらいいな♪
そんな淡い期待も砕け散りました。
✓新卒なのにクビ寸前
✓でも多額の奨学金はある
✓おまけに彼氏にも振られた
さすがにこのままじゃヤバイ。
転職をすることにしました。
転職するも…
転職先は医療系の広告代理店。
スピード感良く進む仕事。
0から1を生み出す楽しさ。
今度は仕事内容は向いていました。
ただし、
広告代理店あるあるで非常に激務でした。
それでも20代は頑張り時と決めていたので
ちょっとくらい疲れやストレスが溜まっていても気にせず
朝から寝る直前まで働いていました。
たとえ
お昼の時間が5分しか取れなくても
一日中会議続きでトイレに行く時間さえ取れなくても
なんなら
ハネムーンの前日(当日)も深夜1時まで働いて、
3時間睡眠で飛行機に乗ることになろうとも
とにかく働きました。
それでキャリアを積めるならいいや、と
感覚が麻痺していたと思います。
蕁麻疹が繰り返し出ても
生理が止まっても
身体のSOSを無視して働いた結果…
ある朝、突然PCを前にして身体が全く動かなくなりました。
「もう消えたい」
「この瞬間、今を終わりにしたい」
そう思っている自分に遂に命の危機を感じ、休職することにしました。
どんなに人に貢献したくても
自分の命より大切な仕事はない。
そんな当たり前のことにようやく気付いたのでした。
<休職中>
あまりある時間の中で気づいたことがありました。
それは、
高校時代に考えた「薬を1日でも早く届けたい」という想いの本質は
「自分の強みを活かして、物事を最適化したい」ということ
そして、
「自分1人が幸せでも
目の前の人や周りの人も幸せじゃなければ
私も心から幸せと感じることはできない」
という私のパーソナリティと
なにより一番大事なのは
「まずは自分を大切にしないと、他の人も大切にできない。」
ということでした。
<妊娠出産と仕事>
身体と心を休めて少し元気になった頃
代理店時代に結婚した夫との間に
新しい命が宿っていることに気が付きました。
そして、妊娠をきっかけに、
自分の子供の人生を考えるようになりました。
こんなにくすぶってるのにママになれるのかなぁ
子供になんて言って育てたいのかなぁ。
そう考えた時に思ったのは
「たくさん挑戦して、自分の好きなことで楽しく生きてね」
ということでした。
これ、自分はできてるの?
そう思った時に「このままじゃダメだ」と思いました。
ここで、将来の選択肢を考えました。
大きく分けて3つ
①歯を食いしばって育休明けに会社復帰
②転職
②フリーランスや起業をして一人で生きていく
まず、①の会社復帰を考えた時、
私の職場で活躍している女性は
・独身
・離婚経験がある
・家庭やプライベートをかなり犠牲にした上で常に心身共に倒れる直前の状態で勤務
ほとんどがこのどれかに当てはまりました。
転職前の面談では子供がいても活躍している女性の話を聞いて入社したものの、
実情は想像以上に厳しいもので、
小さい子供がいる女性はほとんど前線を退いていました。
安定収入を得られる会社員は魅力的だけど、かなり大変そう。
ということで、選択肢からは完全に外さずに最終手段として残すことにしました。
次に②の転職
まともにキャリアを積めずに休職・産休入った上に子供がいて転職は難易度高め。
これも現実的じゃなさそう。
最後に③のフリーランスや起業をして一人で生きていく選択肢
これまで何のスキルもなく、会社に頼って生きてきた私。
会社の看板がなくなったら生きていけないな、という不安がずっとありました。
それに元々40代には独立か起業をしたいと考えていました。
うん。やるなら今しかない。
予定を前倒して産休育休中にどうにかして1人で生きていけるスキルを身に着けることに決めました。
<まずは1円稼いでみるぞ>
そう決めたのは良いものの、やり方が全く分かりませんでした。
そもそも
・できることが分からない
・やりたいことも分からない
そんな状態だったので
まずは本屋に行って、かたっぱしから気になる本を読んでみました。
自分にできそうなのはコンテンツ販売でした。
でも何をコンテンツにできるか考えて気づいたのが
「これはコーチングに似てる…」
そして、コーチングについて発信している人をInstagramで調べて感じたのが、
なんか胡散臭い (コーチングをされている方ごめんなさい)
そして自分でも見様見真似でInstagramを発信しましたが、
・どうしても自分もうさん臭くなる
・コーチングをやるなら、スクールに行ってからでないとお客様に申し訳ない
ということで辞めてしまいました。
次に目を付けたのがアフィリエイト。
これは収益化はできなかったのですが、途中まで上手くいって
テレビ局から取材の申し込みをいただきました。(残念ながら出産直前だったので辞退)
ただ、アフィリエイトも継続的にネタを作ることが出来ずに挫折してしまいました。
コンテンツ販売とアフィリエイトをやって気づいたのが、
どんな事業をやるにしても、まず1人で収益をあげるには
「マーケティングのスキル」と「SNSの運用スキル」が必要
ということでした。
そんな中たまたまInstagramでこもりんのオンラインSNSスクールリモラボを見つけ、
「これだ!」とすぐに入会を決めました。
<Instagram運用代行をやってみた>
リモラボ入会を決めたのはなんと出産3ヵ月前でした。
普通は出産に集中するところですが、
「ここでやらなかったらきっと出産後は育児でなかなかフリーランスの準備をやらないな」
と思いました。
ということで、多少月額費がかかっても、妊娠中からスクールに入ろう。
そして、作業はできなくても耳学習をしたりモチベーションの維持をしようと思いました。
これが今思えば大正解。
産前ギリギリまで情報に触れて、産後1ヵ月でインプットを始めたおかげで
産後2ヵ月で赤ちゃんのお世話をしながら、インスタ運用代行のアカウントの発信を始めることができました。
発信を始めて3ヶ月目
インスタからお問い合わせをいただき初集客することができました。
これが0→1達成の瞬間です。
それからは少しずつお客様も増えていき、
それと共に収入も増えていきました。
何をして0→1を達成して集客が継続しているのかは
今後このブログで発信していければと思います。
0→1を達成して見えたもの
インスタからは集客できるようになったし、
マーケティングもほんの少しずつだけど分かってきた。
そこで感じてきたのは
✓この先Instagramだけじゃ会社員以上の収入を上げ続けるのは厳しいかも
✓発信者が増えているのでInstagramだけでは生き残れなそう
✓第一線で活躍する経営者を目の当たりにしてレベルアップしたい欲が出てきた
こんなことを考えている時に総合的にWebマーケティングを学べるスクールの情報が入ってきました。
そこでまず教えもらったことは
どんな発信にもライティング能力が必要。
そんなわけで
今自分をさらけだして、こんな長文の自己紹介を書いています(笑)
<最後に>
この記事を書いている今、子供は生後10か月になり、新年度から保育園に入る予定です。
つまり、
当初目標に掲げていた育休中の目標収入月収20万円を達成することができました!
そして、
育休明けは月収50万円以上を目指してさらに成長をスピードアップする予定です。
このブログを見てくださるみなさんには
✓私が産休育休中にどのようにして収入を得られるようになったのか
✓育休明けにはママフリーランスとしてどうやって収入を上げていくか
をお見せできればと思います!
きっと育休中に1人で収益をあげられるようになりたいと思っている女性の道しるべになれると信じています^^
ここまで長い文章を読んでいただきありがとうございました!